幼き日の回想

「こないだおじいちゃんとこに行って楽しかった?」

「え?どのおじいちゃん?」

「どのって?」

「おじいちゃんって年をとった人のことでしょ?そこら辺にいっぱいいるじゃん」

「いやいや、そういう意味じゃなくて、えーと
お母さんの実家に行ったでしょ、あの時のおじいちゃん」

「そう言ってくれなきゃわかんないよぉ」

「おじいちゃんって言葉は、年をとってるってだけじゃなくって
お父さんのお父さんやお母さんのお父さんのことも言うんだよ」

「じゃ、そこらへんにいるおじいちゃんもお父さんのお父さんなの?」

「まさか。違うよ。」

「じゃぁどうやって区別したらいいの?」

「その辺のおじいちゃんは滅多に話題にしないから気にしないでいいよ。
『おじいちゃん』とだけ言った時は、君の、おじいちゃんだよ」

「んー」

「えーと、血が繋がってるってことだよ」

「そうか!」

「おぉ!」

「おじいちゃんはお父さんを産んだんだね!」

「待て待て。男は子供を産まないよ」

「えー、じゃ血が繋がってるって言えるのー?」

「(ん)それにね、おじいちゃんはお父さんのお義父さんなんだけど
お父さんはおじいちゃんの子供じゃないんだ」

「わけわかんないよぉ、しかも説明になってないってばぁ」

「おじいちゃんはお母さんのお父さんで、
そのお母さんから君が生まれたんだから、血は繋がってるよ」

「なるほどー。そうならそうと言ってよねぇ。」

ひとしきり考え込んで、突如口を開く。

「お母さんがいるから血が繋がってるってことは、
男はなんの役にも立たないんだなぁ」

「そ、そんなこたないよ」

「別にね、何もしてないなんて言ってないけどさぁ、
男は血がつながるってことに関してはなんにもしてないんじゃないの?」

「えーと、ナニしたりしてるよ」

「ナニ?」

「そうそう、っていうか、別の言い方をすれば媒介だな。
直接何かをしてるわけじゃないけど、女性に作用して子作りをだね、あ、ありがとう」

「朝から男同士で猥談してるんじゃないわよ。ほら、もうあんまり時間もないんだから
早くごはん食べてよね」

「お母さん」

「え?」

「男はなんにもしなくて大変だねぇ」

「そうよぉ、あなたも男なんだから、精々がんばってね」

「!!!」

ご飯と味噌汁をかけこんで背の高いのと、小さいの。
男が二人玄関を飛び出していく。

at 20:53, テツ, 月と珈琲

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果実

やぁ、こんばんわ。
嫁の家族がきていて、団欒というものを少しだけたしなんでおります、テツです。

どうもツイッターの一週間まとめを投稿させるようになると
それ以外の投稿がないのが寂しいと思ってしまうね。

レビューが新書に偏ってますけど、読み終わりやすいので
どうしても先行してしまう。
でも今、僕が読んでいるものでちょっとこれはよいなぁと思うものを紹介します。

長谷川四郎「鶴」

一言で言えば戦争小説として示されるものだろうけれど、
非常な筆力を持っていて、素晴らしい。

というわけで、長めの引用をします。



日が沈むと野原は急に真黒になって、その代り空が急に真赤になった。そして、この赤
い光の中へ、あの一本の棒杭が急に大きく生長したようにくろぐろとそびえ立つのが見え
た。その時、突然、今まで何処にひそんでいたかわからない一羽の大きな鷹が現れて、
この平野の垂直な孤立のトマリ木の上に飛んで来た。彼はまずその上に静止して、それか
ら大きな翼をひろげ、この平野の紋章のように、夕焼の中にその堂々たる真黒な影法師を
描き出した。それからゆっくりと羽ばたき、羽ばたき、羽ばたきながら日は暮れてゆき、
やがて何ものも見えなくなると、ただ闇の中から微かに翼の音が聞こえて来た。そして、そ
れが完全なる静寂の中へ遠のいてゆくと、それからは、もういくら耳を澄ましても、音と
いうものは何一つとして聞えて来なかった。その時、夜はこの闇に沈んだ平野の上に広大
にして壮麗なる星空をひろげていた.......。

「鶴」長谷川四郎著「鶴」講談社文芸文庫 所収 p.42


この時間感覚、言葉の密度をうまくコントロールしながら
夕焼の引き伸ばされたような、振り返ればあっけないこの夕焼けをこれほどうまく表現したのは見たことがない。

物語としては、あえて印象をとどめないようにしているかのように
抑制が聞いているが、題材が題材だ。
これで十分である。

また、ハドリアヌス帝の回想も読んでいるが、
サロンというものが現代においてこそ、開かれるべきものであるような気がしてきた。

これは先だってのエルデシュの伝記と
もうすぐ書く予定の「限界集落の真実」(山下祐介著)から思い立ったものだが
果たして、どのようなかたちが面白いだろうかねぇ。

at 21:44, テツ, 月と珈琲

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のろけ/文明化の指標としての草食系男子

最近、トヨタカップを見て、メッシすごいなぁ、とか実況面白いなぁとか
二人で言い合ってたら、気づくと日本代表チップスが買ってあったり。

こういうところ、非常に我が嫁のかわゆいところである。
ふと思えば、別にこれがあるから付き合ったというわけでもない
かわゆいポイントがいくつもある気がする。

割りといい気分である。

別に何がなくとも、いいものがあればいいだなんて
「夕飯なに食べたい?」に対する回答なら失格ものであるけれどね。

それにしても満足である。

***

満足しないことが人間を育てて来た。
地球を離れてしまうほど不満足になれる為には、
欲求はいわゆる動物的欲求にはとどまれなかった。

文明の始まりは確かに、食欲、性欲、睡眠欲の3つだったと思う。
食欲は飢餓を避ける為の効率的な食料調達、
それにともなう土地の管理技術、調達された食物の調理技術を発展させた。
睡眠欲は安全な居住スペースの確保を促し、
性欲はある種の社会制度、性別による棲み分け、マッチングシステム
また、相手に認められるという社会的承認の発端となったであろう。

社会性を人間に導入したのは性欲による。
だからジェンダーは社会性と切断し難く絡みついている。

まぁ、しかし今はそこに触れない。

社会的欲求が増大する形で、人間は文明化されてきた。
動物的欲求を抑えられる程度に。

草食系男子というカテゴリーがあるが、
これはようやく男子も文明化されてきたということの証だと思う。
他の欲求に自分のエネルギーを使うことができるゆえに
性欲に対して無関心を装うことができるのである。
(本当のところは知らんけど)

これを女性が強くなったとする論調もないではないが
パワーバランスの問題ではないと思う。
消費世界の社会的欲求に沿う流れで男性がやっと文明化されたのであって
女性はハナから社会的欲求ともっと直に向き合ってきたのだと思う。
性欲をもとにしたものという呪縛からは解放されてないけれど。
貞操を守るという規範は性欲を焦点化したゆえに現れたものだ。

消費社会の規範として性を直に扱うべからずという
とりあえずのお題目がある中で、男性はようやく文明化されたのだ。
というわけで、草食系男子は消費社会がようやく
人間を支配下に置きつつある重大な成果である。

***

ipadで始めて長い記事を書いてみようと思ったら
とてつもなくストレスフルでしたのでここまで。

at 10:49, テツ, 月と珈琲

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今について

 冷え込みが強くなってきた。
凍てつくほどでもない、厳しいとも言ってないが、
冷気というものを思い出す、そんな季節。

部屋を変えて、稲荷山が見える場所に住んでいるので
紅葉に差しかかる一日一日を近頃、写真に収めている。

ふと、ツイッターにでも投稿したらよさそうな気もしたけれどやめた。
ほんの少し、昨日より淡く色が浮かんでいる稲荷山。
その写真を提出することと、僕がそうして撮っていることの落差につまずく。

稲荷山はただそこにある。
僕が写真を撮ろうと撮るまいと。
写真はごく単純に言ってプライベートな何かだ。

もちろん、何か気恥ずかしいとかそういうことではない。

彼女がメイクリハーサルだとかで、
ブライダルプランニングのお店に顔を出しているらしい。
仕事の帰りに電話をかけたら、そう答えられた。
見たいような見たくないような。来てもいいし、先にご飯食べて帰っててもいいよ、と。

悩んで、とりあえずご飯を食べて、そこに向かう。
メイクリハーサルが終わっていればいいな、と思いながら。

案内された部屋では彼女が鬘をつけていた。
間に合ってしまったか。

今、ここでお湯割りを飲んでいます。
冷え込みを感じるような季節には丁度いいものです。

稲荷山は色づこうとしています。ゆっくりと。
おそらく、1週間くらいはかかるでしょう。

その2週後くらいに彼女は鬘をもう一度かぶります。
僕は写真を撮ります。

at 22:30, テツ, 月と珈琲

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エチュード:戦争

 今、荒川さんの「日記をつける」を読んでいるのだが、
ふと、戦争こそはなかったことにできないことなのだと思う。

奪い、傷つけること。
そればかりは、どうしても捨て去ることのできないことだ。
そういったことを好き好んで仕掛けるものは、一体どれだけの
孤独を抱えているのだろうか。もはや、絶望的なのだろう。とも思う。

***

本当にそうだろうか。
僕らの想像力というやつは、そんなに無力だろうか。
そもそも、我々は何かを所有していたか?
我々は傷つけられる前から、傷つけられようとしていなかったか?

また、孤独とはなんだ?誰の孤独だ?
誰もが孤独であるなら、それに固有の意味などあるのか?

***

戦争は何も奪わなかった。
勝者たちは、何も持ち帰らなかった。
凌辱はしたが、彼らは何も持ち帰らなかった。

そう、消費したのである。

我々は常に傷ついている。
多かれ少なかれ、明日の光が差すことを
植物よろしく待っている。

植物と違う、こともある。
僕らは求める。僕らを求める。

失われたものは永遠に失われたままだ。
そのことに気づいて、ようやく声を出す。
言葉を書きとめる。

そういった葦である。

とパスカルは言ってはいなかった。

***

祝福を伝えるべきなのに、それが贈与の形になってしまうのは
別の形の傷を与えているのだ。

誰が?誰に?

贈り物が、世界に。

今更、僕たちはインターフェイスなのだ。
神々の僕として、地上に楽園を築き上げてきた。

それゆえ、僕たちは失われてきた。すでに。
進行形であり、已然系であるような形で救い出すのは、言葉だけだった。

そして、戦争はすでに無数に終わり続けている。

at 23:01, テツ, 月と珈琲

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分相応の贅沢

 原付を軽快に飛ばして帰り道、
自転車が際どいラインで突っ込んでくる。

最近はシクロばやりでなんともまぁ、
昔、自分も踏み込んで走ってましたが、
立場変われば鬱陶しいもんだと思う。

んで、何者かとちらと見たら
ロードではなくてシボレーのブランドチャリでした。
逆にイマドキそれですか、という新鮮さ具合で
女子大生っぽいのが乗ってて、
彼女にとって丁度いいくらいの贅沢さ加減であるなぁ、と
何か微笑ましい気分になりました。

分相応な贅沢、を何かにかけるのは
その人の世界をほんの少し支えてくれる気がする。

ただし、贅沢がそれ自体で支えてくれる範囲はそれほど広くない。
それにかまける程でないが、素通りするのも惜しい
そんな人生の街路樹が贅沢であるといい。

こないだのパーティに参加して頂いた方々ありがとうございました。
贅沢というほどのもてなしではなかったかもしれないですが、
あの場をもてたのは贅沢であったと断言します。

ありがとう。

at 01:25, テツ, 月と珈琲

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今、到来するべきものの遅延。

 ハロー、ワールド。

久しぶりに熱が出て死にかけました。
(詩に賭けました、と一発で出た時には涙が出そうになるね)
(出ないけど)

そんな時に看病してくれる相手がいるのは
本当にハッピーなことだと思う。

こんなことを書くのは、
事実がそれだけでないからこそ、
書かれるべきことだと知っている人は知っている。

結末などあらかじめないままに物語は進んでいるんだよ。
そうなんだ。驚いてしまうことに。
けれど、何かが起こるということだけはおそらく決められているのさ。
(神は私に乗り越えられるだけの、あるいは
打ちひしがれるだけの試練を与えたもうた)

だから、結末はないけれど、結末が起こることだけは決まっている。

随分と持って回った言い方をしているようで申し訳ないが、
このルートが最短だ。

そうやって毎日原付に乗って家に帰る。
今日は?今日も。
ただし、今日は彼女が出かけている。
帰っても誰もいやしない。広すぎるよ、3LDK。

僕は死なない気がするんだ。
と言えば気が狂ったと思うが
僕は死ぬまで死なない気がするんだ。
と言えば、阿呆かと思う。

けれど、その両方を抱えている。

肩から提げている鞄が曲がる時に少しうっとうしい。
風が強い。なんだか引っ張られる気がする。

僕は気違いでも阿呆でもないつもりなので、口には出さない。
けれど、死ぬまで死なない気がするんだ。

この原付も1万キロを超えて乗っている。
いつだって死ねるような気がするけれど、まだ死なない。
別に死にたいわけじゃぁない。
ただ、いつでも横に口を開けて待っているようにも思える。

本当の事を言えば、とても長生きをしたい。
生きることの積み重ねが、長生きにつながるようにも思えない。

そう感じつつも、死なないような気がしているのは
僕がどうやら、物語の中にあるように感じられる時だ。
物語の中では決められた結末まではそれが起こらないからだ。

女性はこれをマリッジブルーと呼ぶのかもしれないけれど、
これが、僕の場合はどうもその庇護を失う危機として
肌にまとわりついている気がする。

出来すぎている、というのは、畏れるべきことだ。
ただ、ただ、夜が過ぎれば朝が来る。
それすらも恐ろしい、そう思わないだろうか。

今、君の帰りを待つ。
今日は帰らない君を。
いつまでも待っていられるならば、それ幸いと。

おやすみ、読む人よ。

at 00:07, テツ, 月と珈琲

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誘惑のカテゴリー

 「えっちしたくなるオトコになる」、とふらり、
一般的な形で語ってしまうとどうしてこう滑稽な感じがしてしまうのかと思う。

「あなたが」と一言付け加えればまだマシなのにね。

とはいえ、これはナイーブに設定された
女性側の事情の裏返しなんだから仕方がない。

つまり、「えっちしたくなるオンナになる」というのが
割に現実的な指針として存在するということで。
これはある種の能動的な受動性、誘惑であるけれど、
単に誘惑についての指針を超えてもいる。

なぜかというと、一般的な形でこうして語るためには
まず、「男性は女性を欲望の対象とする」という命題を受け入れなくては成立しない。
これは誘惑以前の前提として置かれている。

同時にこれを受け入れようとするならば、
オンナは誘惑というカテゴリーを引き受けているわけで、
求められるように求めている以上のことではない。

「女性は男性を欲望の対象とする」と言おうとするには
誘惑を完全に逸脱してしまってかつて男性が欲望していた女性からずれてしまうわけだ。

というわけで、冒頭の発言を可能にする為には
誘惑のゲームに乗らない強靭な精神か無頓着さが要求されるわけで、
僕にはできそうもないととりあえず述べるにとどめます。

at 02:24, テツ, 月と珈琲

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透明なプライベートルームにて

  この世界は何でできているのか、答えるのは簡単だ。
世界はすべてでできている。

ただし、僕らはすべてと出会えないだろう。
だから、物語は存在を許されるのかもしれない。
そんなに消極的なものなのか?という問いはひとまずおこう。

前置きはもうたくさんだね。
僕もそうだ。

さっき書いたばかりの記事で書いたように
これは伊藤計劃「ハーモニー」「虐殺器官」そして
円城塔「Self-Difference Engine」の三作品を読んだそのケジメとして書く。

この三作品を選んだものの、同じ特質があるかどうかは疑問だった。
けれど、結論から言えば、同じように位相の変化はどれもなかったと言える。

「ハーモニー」では究極のファシズム的妄想のような計画が
当初からグロテスクであり、最後までグロテスクであり、そして計画は止められず
止めようとも選択されず終わる。
「虐殺器官」では紛争を選択的に起こす技術が存在し、
それを持って紛争を起こさない地域を作るんだというロジックを
まず、相手役がおこない、主人公はそれを追いかけ、殺したものの同じことをしてしまう。
「Self-Difference Engine」は物語のメタ構造を常に想起させるような仕方で
そこで何かが起こっていた/いなかったということが問題にならない地平を作った。

この閉塞感、どん詰まりはいったいなんだろうか。
いや、こんなものはお馴染みの社会の閉塞感を表現してとか
ほら、ポストモダンがさ、とか言ってみてもいいのかもしれない。

でもね、言ってみれば閉塞感を描いたものならいくらでもあったんだと思う。
ただ、この作品はそれぞれエンターテイメントとして書かれていて、
その題材はもっと単純にカタルシスを作ってもよかったはずのものだった。
物語の潜在的な欲望に抗って作者のエゴが通ったのだ。

言ってみれば下りのないジェットコースターだ。
乗客は緊張感を強いられたままひたすら上へ上へと
揺り上げられて、そしてそのまま一番高いところで降ろされる。
ジェットコースター狂ならクレームものだし、
付き合いで乗せられた人も高いところが怖くておびえてしまう。

***

地平の変化を描くことの効果について、
補足的になりそうだが考えてみようか。

出来事があり、それが(私の、かすべての)世界にインパクトを与える。
展開をそう定式化するなら、出来事に対するスポットライト効果がひとつある。
たとえば、愛とはかくも重要な出来事であるとかなんとか。

もうひとつは承認しづらい最終的な状況に対して、
読者を力づくで説得するために、描かれる展開。
「そんな考え方はにわかには信じがたいが、
確かにこうなってしまえば私もそう考えてしまうかも」

展開とは価値づけと異なる地平を結びつける二つの効果がある。

***

とはいえ、エゴなのか、どうかはこの段階ではまだ早いか。

展開が必要でなかったから、か
展開が不可能であったから、か
そのどちらと取るかでだいぶ違う。

(展開がマイナスに働くという意識もあるいはあったかもしれない。
終わりが来れば、いつかは忘れ去られるものだからね。
でも、この場合それは考慮しない。不自然だから、という理由で。)

可能であるにもかかわらず、ならば、不必要だし、
そうでなければ、不可能だったからということになるか。
展開を可能にする条件について考えてみよう。

物語の展開は出来事が必要であり、
そこにあって、人物の意思がかかわる必要がある。
(出来事を誰かの意思で起こす必要はない)
これが最低ライン。

ただし、書くための可能条件としてはもう少し縛りがいるだろう。
それを書く意義が認められるか、否か。
(それは不必要とどう違うのだ、というもっともな意見はちょっと待て)

一度振り返って作品群を眺めると、
どれもこれも個人の流れの範疇を超えている。
「私が何を選択しても、いずれ誰かが私が選ばなかったものを選ぶであろう。」
個人の自由が世界に穴を開けられない。

そういった世界で地平を変えたり、価値を新たに与えたりすることに
なんの意味があるだろうか。
展開は必要性を奪われ、不可能になっているのだ。

***

多孔性という概念を拾う。
「虐殺器官」は戦場が舞台になるので廃墟が多い。
穴だらけになったビル。
あるいは核爆弾でクレーターとなった村。

穴だらけになったとしても、土地は揺るぎなく、存在を失いながらも
座標を失わない。地図の名称も残るだろう。

そこにあるのは、もろさと強固さの共存であり、
オープンかつ人を閉じ込めるミノタウロスの迷宮を思い出す。

***

それならば、小説を書く意義も失われるのではないかと思わないでもない。
とはいえ、事実として書きあげられた。

展開を失えば出来事としての性質は非常に弱くなる。
それならば、これは何か。

この箱庭ジオラマのような作品群は。

***

透明なプライベートルームというものをイメージする。
モダニズム建築全盛の時ならよく見かけた
あの、ガラス張りの建物群。

近代精神とは見えること、絶えずさらされること
透明性、公開性、それが重要なことだった。
同時に独立性をも。それが近代の倫理だった。

すべてが見えるが、触れられず、
見えると同時に見られる。
Webもそうかもしれない。

遠近感はあるものの、一番近いものですら触れられない。
近代が終わったというのは、それが自発的に得られたのではなく、
その精神だけが生まれる前よりあった僕らの時代のことだ。

***

円城の作品はかなり分裂症気味な傾向がある。
非常にキッチュで、それがエンターテイメントの性質をもたらしている。

この過剰なイメージのまき散らしこそが戦略かもしれない。
分散することで価値を極限まですり減らしながら指し示される物象。

それは孔であったかもしれない。

伊藤のハーモニーを読んだ時に感じた、チープな繰り返し。

それも孔であったかもしれない。

何も世界に傾きを与えないが、代わりに
このガラスの部屋に扉を付けたのかもしれない。

もはや、小説は遠くに読者を連れていく乗り物ではなく、
扉を描く仕事となっていたのか。

小説は描かれなかった物語への道筋をつけるために、
犠牲にされるのかもしれない。

***

とてつもなく、アレな感じだけれど。
これは東の「動物化するポストモダン」を追認する形になっている。

いまだにその呪縛から逃れられていない、というか
それがより強烈にあらわれてきているというべきか。

***

at 12:41, テツ, 月と珈琲

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虐殺、ハーモニー、Engine

 作品というのは原則的に
ひとつずつ評価されるべきだと思う。
なぜなら、同じ作家であっても、書くことの意義が変わる時もあるし、
そうでなくても、モチーフは基本的に変わるもので、
それによって手つきも変わる。

だから、作家論であるとか、作家をグループにまとめるとかいうのは
傲慢で、あえて言えば作品群をまとめることだけが
唯一可能であるような形だと思える。

ただ、伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ時に感じたものは
明らかにそれまでの小説とは異質なものだった。
非常にスリリングでエンターテイメントとして完成されていて
さらに、時代に根差した問題意識も先鋭だったが
そんなものが僕を驚かせたのではない。

ここまで物語が動いているように見せながらも
実際のところ、物語としては何も動いていない。
言いかえる。世界は何も微動だにしない。
「私の世界」ですら、物語の展開によって揺さぶられてもいない。
感情は揺らされている。誤変換で出たが、強請られていると言ってもいいくらい。
それでも、私を含めた世界の位相は何も揺らがない。

僕は小説というものを
物語の持つ駆動力に賭けられていると考えていた。
物語の展開とは世界の位相の変化であり、
同じ空があっても違って見えるようになる、
そんなものの為に物語が生み出されるのだと。

だが、この作品はそこに賭け金を置かなかった。
置けなかったのか、置かなかったのかが分からず、困惑した。

それを知るために、彼のもう一つの作品「虐殺器官」と
さらに、同時代にデビューした円城塔の「Self Difference Engine」を読むことにした。

その結果、何が分かったのかと一口に言うのは難しい。
ただ、もっと読めば分かるのかと言えば、
おそらくそういった作品群を見つけることはできるだろうが
小さな差異に拘泥したり、くだらない統計を付け始めてしまうかもしれない。
そんなところには多分、この異質さの理由は現れてこないだろうと思う。
なぜなら、その一作で十分にそれを感じることができて
そこにこそ、まず「異質さ」があったのだから。

そんなわけで、これを前書きとして
次に項目を進める。

at 22:42, テツ, 月と珈琲

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