多様性について

6月であるような5月だった。

気分屋でしかも、
デリケートと言うにはあまりに雑な振る舞いである。
太陽はとても厳しく差し込んで、雨はそれを取り囲んでは脅かしていた。

仕方がないので、我々はインドアでできることに励む。
ソファでくつろぎながら、もしくはベッドで。もしくはラグで。

少し掃除するべきだと思う時には、掃除をしていない。
そしてまた、掃除にとりかかるほど余裕もない。

ヒップラインの稜線がブルーのラグの上にある。
なぞりながら双曲線というものを思い描く。

1つの式が2つの曲線に分離している。
もしくは、2つの曲線は1つの式へと結びつこうとしている。

別の日の、別の女の子。
ショートカットで、唇が厚めで、指が短い。

触れているつもりで、埋もれていた。
引き抜こうとすれば、埋れているのは指ではなくて僕自身だった。

夜ではなかった。誰もが明晰に君だった。

太陽はとても厳しく差し込んで、産毛が無闇に光り
雨は我々を押さえつけて、呼吸を苦しくしていた。

もう、5月の中の6月である。

***

多様性について

多様性はそれ自体尊重されるというが何故か。

しかし、多様性は尊重すべきものかと言えばそうではないだろう。

それが目的であろうはずがない。

多様性はすでにしてありふれている、ゆえに

受け入れざるを得ない。

仮にそれを覆そうとしたところで、

機能が「我々」を分かち、また多様なるものへと世界が変動するはずだ。

この変動を逆からとらえると、

地平の統一のようにも見えるが、もっと荒唐無稽な溶融が起きている気がする。

しかも、私は常に置き去りであるような溶融。

ブラーフマン、こんにちわ、さようなら。

at 23:36, テツ, 試論

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涙が出ちゃう。だって根無し草なんだもん。

前回、国民概念の融通無碍さについてお話ししたわけだけれども
今回は、もう少しだけそれを先に進めようと思う。

「国民」は本当の意味でそこに定住している人間で、かつ
当該地域において完結した環境を作っていれば
かなりどうでもいい概念だ。

「民族」も同じように同質性が担保されているならば、
まったくもって問題にならない。

差異を我々が感じる時にこれらが必要とされる。
そして「国民」は「民族」よりも差異を乗り越える
4WDの車輪のような働きをするだろう。
そしてまた、それを期待されている。
ただし、差異を鮮明にする働きはどちらにおいても持ちうる。

「国民」概念が使用される為には、人の交通が必要とされる。
「民族」概念が使用される為には、触媒としての環境があれば事足りる。
ここの2つの差異は「国民」においては共通の了解事項を持ちながらも
差異のある人々は混在があったうえでのものだからである。

それが「交通」transportである。越ー港などと書けば
もはや時代がかってくるけれど、要は拠点をまたぐ移動である。
ただの移動ではない。別種の場所を開く動きだ。

民族はいかな時でも同質性を基盤にしており、
政治的に国を失ったとしても根無し草にはなり得ない。
本当に根無し草にはなるには「国民」であらねばならない。

「国民」概念はすでにして差異を飲み込んでいる。
これが後退でないとするならば、何を好き好んで根無し草になど我々はなるのか。

「この土地のもの」として歴史と大地に抱かれて生活することは
もはや不可能なのだ。なぜなら、交通が開かれており、
私がどのようにするかは関係なく、私たちは環境に差異が
常に持ち込まれる社会を生きているからだ。
それは外国人が来るという話ではなくて、
日本国民が完全に同一ではなかったではないかと言っている。

そうした環境においてまず、やり過ごす為に
根無し草であることが求められてもいるように思う。
ふらふらと大雨が来れば、大地を離れ浮き上がってしまいまた別の土地に入り込む。

そうした人の助けであるような概念としての可能性を持っている。
割りと楽観的な感覚かもしれないが、書きながら割りと悲しい気持ちもある。

ただ、歴史も大地も我々が擦り減らしてしまったものだから、
そして、それによって開かれた可能性に向かって進まなければいけない。
懐かしいCMでも言っていた。

明るいナショナル。

それでは、ごきげんよう。

at 00:01, テツ, 試論

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レビューレビュー

本を読む。それはとても個人的なことだ。
だから、グーテンベルグの活版印刷は宗教改革の原動力になりえた。

とりまき絡みつく空気を、一つのテキストに集中させることで、
慣性の力を打ち破る、意識におけるバベルの塔の礎となった。

今や、テキストは無数であり、相互に関連付けられ
これ自体が空気として、まとわりついている。

テキストを覗きこめば、
内側が同時に外側になるような時代は終わり、
それらは空室のただの個室になっている。
僕らは個室にこもってノックされるのを待ち、
ノックされれば憂鬱になるだろう。

そんな時代のレビューについて。

読書はいくつかのレベルで同時に行われる。
1)作品の物語と文体を持ち、読者はそれを味わう。
これはまずもって純粋な読書体験ということになる。

また、
2)作品が世に出ていることで現れる政治性、メッセージの授受。
この読みをする場合、大抵作者と作品は結び付けられる。
そうでなかった場合、つまり作者が特定できなかったり
もともと政治性を持たされていなかったとしても、
出現した時代と照合され、時系列によって整理される。

最後に
3)読書体験による自分の感受性に対する反省
ある文章が揺らぎを与える。
それは文章がそうする力を持っていたとしても、
そのことに対して揺らぐ自分に驚くことがある。
そうか、自分はこのことに対して価値を見ていたのかなどと気づかされる。

1)をまとめたレビューは「作品を語る」ことである。
が、同時に作品の要約であることを逃れないだろう。

2)をまとめたレビューは「作品で語る」ことである。
このレベルでのレビューは十分に独立した価値があるものの、
対象の作品は特定の作品としては必要されていないかもしれない。
そして、これこそが絡みつく空気を作りだすものである。

3)をまとめたレビューは「作品と語る」ことである。
これはいまだに個人的なものとして語っているが、
同時に誰か相席しているはずの部屋を内側よりノックしている。

3が純粋に自由だと言おうとしてるわけではない。
そこでつながっている世界が自分の世界であり、
これだって自分でコントロールできるわけではない。

ただし、受け入れる他なく、私がつながっている世界だ。
価値観がどうのこうのではない。
私が生きてきた世界との関わりが、感受性に、脳髄に染みついている。
それは純粋な形で存在する世界とはまた別物だ。

それをもう一度、開く。作品とともに。
そうしたレビューができればいいと常々思っている。

何故、そう思うのかと聞かれれば、
そうできるはずなのに、そうしないのはもったいないし、という
貧乏性から来ているのは間違いない。

at 13:12, テツ, 試論

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銃を捨て、旗を掲げよ。革命は終わった。

まず、テロと革命は背反事象でない、ということは押さえておきましょう。
テロであり、革命である、ということもあり得る。

共通する性質として
どちらも暴力的ではあります。
具体的な暴力でないとしても、暴力的です。
何故、暴力的かと言えば、既存の存在、あるいはシステムに挑戦を挑むからです。

また、どちらも非対称的な状況からの挑戦という宿命を背負っています。
国と国では戦争ですが、国と民衆ならば、革命でありテロです。
ここで、ある国と他国の民衆で革命というのは
語彙上あり得ないと感じられます。

革命とは別種のシステムを立ち上げることが目的とされるものですが、
あらかじめ別の故郷を持った人間がそこでシステムを立ち上げようとするなら
侵略や植民地主義と呼ばれることになります。
ここで革命とは内部的な再編の動きの1つの形象であることが確認できます。

テロにおいては、内部ー外部という位相は問題にされません。
純粋にシステムへの挑戦です。
そして、別種のシステムへの希求はないものと、されます。
いわく、テロはそれ自体が目的であるのです。

それ自体とはそういった怨嗟の声がここに在ることを知らしめることです。

さて、ここまで来て
目的的な部分、と内部ー外部という位相差。
これらはどのように判別されるか。

目的が先にあるのかないのか、そういった点は
行為者にとっては自明ですが、他者からは自明でありません。
また、別種のシステムのビジョンをあらかじめ不可能なものとして取り扱う態度は
革命をただのテロとして認識させることを可能にします。

これは、いかなる革命行為もテロとして見なしうる、ということです。
いかに不当なものを打倒しようと立ち上がっても、
その先のビジョンを根底的に拒否してしまえば、
ただのテロ行為として取り扱いが可能なのです。

(これがイスラエルのやり口である、と言ってもいい。)

また、テロや革命などの暴力行為を起こす、ということですが、
暴力行為は内部ー外部という断絶を必ず作ります。
革命であっても、それ自体は外部性を伴って現れます。

外部性を伴うということは、
その戦いが、クローズドなシステムの調整の動きではなく、
周辺の独立したシステムにも飛び火しうるものとして現れるのです。
つまるところ、その外部性は他国からの介入の可能性にも開かれています。

介入はテロ自体が純粋に非人道的な手段である、とすることによって、行われるでしょう。
ですが、その介入自体がどれだけ人道的かは棚上げされています。
何故なら、それ以外に止める手立てがないからです。
介入者側、挑戦を受けた側が
テロリストのビジョンをあらかじめ否定しているからです。

純粋に制圧すべきものもあるでしょう。
けれども、テロリストがただの挑戦者であり、
不利な立場から始めていることを考えれば、
長く続いてしまうテロとの戦いは
明らかに、挑戦を受けた側がメッセージを聞き逃している証拠であると思われます。

それでも、戦い続けるというのなら、
ただの人道に基づく粛清を我々は受け入れる準備が必要なのでしょうね。

at 00:03, テツ, 試論

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自由のエチュード

 そんなところに魂の自由なんてない。
というよりも、美しさと同じように自由は自立しないうえに
魂もそれ自体が自立するとは到底思えない。

支えられるものばかりが集まっても何もなりゃしないよ。

うつろだ。

***

そんな話をしているんじゃない。
魂の自由がある、と言ってみたかったんだ。

こうして口にされ、書かれた言葉が
聞かれ、読みとられていく地点ではまったく別の話だろう。

自分の首を引っ張って空を飛ぶくらいのことは
たいしたことじゃあない。

***

それで、

それで。


自由はどこかにあるのかな。
宣言すればいいというものでもないだろうけど。
失おうとして失ったのではなくて、この手にあらかじめ失われている。

I was born(笑)。

いや、笑いごとじゃないね。

だから、魂の自由の為に少年は不自由だ。
箸を持たずに食べて、言葉なしに会話しなければならない。

いまでは不自由ささえも、あらかじめ失われていて。
そうだな、こんな戦略もどきは時代錯誤なのかもしれない。

それでも世界の中で可能である限り、
口にされ、耳に届く。それはただの始まりだとしても、
うつろであるからこそ満たされうる器として、魂も自由も。

at 22:11, テツ, 試論

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伊藤計劃のための予備稿

 悲鳴は波だ。そっと壁で抑えてやれば
そのまま返っていく。しかし、消えることもない。

人は人の喜びや悲しみをそのままの形で受け止めることができない。
共振してしまえば、違うものになるし、一番理想的な形と目されるものでさえ
泡のように砕いた後で受け止める。

at 06:57, テツ, 試論

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RT的コペルニクス的の展開先

 今頃、シニフィエ、シニフィアンなんて言葉を思い出した。
言葉には表現と、表現内容があると。

しかし、これは文字に関する話ではないかと思う。
発話された言葉でも当然表現と表現内容は厳密にいえば別々にある。
別々にあるが、同時に二つともすぐに沈んでいく。記憶と印象の彼方に。

言われた言葉を思い起こそうとする。
そうした動きの中で現れた「言葉」はすでにイメージであって
私自身によって繰り返された表現内容そのものでないだろうか。

言葉はそうして私による加工を許容する。

話は少しそれる。

ネットがどれだけ進歩しようとしても
ネットは文字中心的、つまるところ開かれた再現性を維持し続けるだろう。
僕はそう思っていた。けれども、膨大なネットワークの拡張とともに
現れてきたクラウドや、ツイッターという概念が
もはや量的に臨界点を迎えつつあり、オリジナルにたどり着かないような地点まで来ている。

ツイッターにRTという引用機能がある。
引用元は当然参照できるのだが、
それだけでなくほとんど自分の記事と同じような扱いで引用があらわれる。
これはただ単にリンクを張ればすむはずだったネットの生理の変化を示している。

文字が氾濫してオリジナルの検証コストが膨大になりつつある中で
そこに立ち戻ることよりも、「私がそれを引用している」というコノテーションの方が
優先されているというわけだ。

これにはすでに文字は埋もれてしまっていることを
半ば自明のものとして受け入れるような姿勢を感じる。
埋もれるということに関して言えば、リンクを張るという行為やageという行為に
すでにあったわけだが、それは埋もれないようにしようというと意思のあらわれで
いつでも引き上げることが可能だという楽観論がどこかあった。

RTに関して言えばすでにして自分の発言であるかのような振る舞いで、
文字は埋もれるもので、埋もれているゆえにRTする。
つまるところ、文字は消失を完全に手にしたのだ。

さて、話は戻る。

印象と記憶の彼方に文字が封じ込められるとすると
果たして、文字が堅牢に作り上げる世界というのは暴落せざるを得ないだろう。
ただし、世界同時通貨安なんてことも最近起こっているのでね。
少なくとも言えるのは崩れる足場には長居できない、ということ。

とりあえず、この辺で。

at 10:35, テツ, 試論

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美しさについての追記

 美しい花は存在しても花の美しさは存在しないだったか、
まぁ、そんな話が関わるのかどうか別として
美しさと言われれば、このフレーズを思い出す。

さて、これは強度というものについての話題でもある。
美しさは魅了という仕方で人を圧倒する。
圧倒という様式、それが強度である。

今回、こうした話題で話すのは
「美しさは思想から自立しているのだろうか」という問いかけからで。

その問いの周辺を回るのはなるべくよそうと思うのだけれど、
思想から自由にあるものは何か、という大きな問いのうちの一つであるのは確か。
この問いには我々が対立を超えて共有可能なものがあるのか、という読み方もできる。
思想は統合する役割も果たすだろうが、それと同時に隔離も行う。
それを抜け出す糸口は常に、存在から拾われなければならない。
拾ったものを差し出す役割が言葉であり、思想だろう。

強度は自立している。
少なくとも強度を持つ存在にとって、思想は不要だし
受け取る側にも言葉がいらない。

それを「美しい」と口にしてしまった瞬間、僕は迷う。
そんなものに収めた覚えはない。この美しさはあの美しさではない。
詩人はそれを超えて語る者だが、まぁ、それは別の話。

美しさは伝えられたがっている。
確かに無前提に受け取られてしまっているが
そう言葉にしてしまった以上、本当に無前提なのか?

美しさのレプリカ、としての「美しさ」。
それは私の体験と結びつきながらも、差し出すべきものとして
そういう思惑の産物として梱包されている。

もう一度、最初に立ち返って小林秀雄の言葉をなぞれば
それは存在しないものだ。

我々に差し出された「美しさ」は我々のためにある。
なんとなれば、教祖となり、怪しげな司祭がそれをご宣託として伝えるだろう。
それだけのいかがわしさが、「美しさ」にはある。

私の受け取った美しさは、存在とともに差し出されずにある。
指を差すために、叫ばれた美しさがけれど、伝わり切らないのは
それは石を投げることと等しくあるからか。


at 23:05, テツ, 試論

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僕は何を考えたかったのか。

 について考える。

生きていくうえでの価値の区分、
何に重きをおいて、何を捨てるのか。
要するにどうやって生きていくのか。(倫理だね)

青臭さの必要性に駆られていたのは間違いない。
ただ、今もふと思う。

傷についてと、他者について、というのは
避けられようもない出会いにかかわる話だ。
重きをおくとか、そういう次元の話ではない。
結果、これは倫理ではない。
順々に腑分けすることもできないかと思ったが
そうすることはできない。何せ自分のものではないから。
(傷が唯一の希望であり絶望である)

そこで、倫理としては意思を扱うべきとなる。
その中で今は愚かさについて考えるべきのような気がする。
愚かであることをどのように受け入れるか、ではなくて
愚かであるとはどういうことで、許されないなら何故か。
撲滅するためではなく、何故愚かさがあらわれるのか。
何かの必要があるのではないかと、真剣に考えるべきだと思う。

at 23:38, テツ, 試論

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S氏に対して(愛について1)

他者を拒むのに慣れる、というのはとてもよく理解できるが、
それでもなお、 愛情は有限ではない。

個数としては限界があるとしても、
愛それ自体は不可能な試みなので、無限を目指す。
有限な僕らが唯一触れることに意義を感じる無限なので、
自然と節度を保つことが要求されているのだ。

at 02:52, テツ, 試論

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