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虐殺、ハーモニー、Engine

 作品というのは原則的に
ひとつずつ評価されるべきだと思う。
なぜなら、同じ作家であっても、書くことの意義が変わる時もあるし、
そうでなくても、モチーフは基本的に変わるもので、
それによって手つきも変わる。

だから、作家論であるとか、作家をグループにまとめるとかいうのは
傲慢で、あえて言えば作品群をまとめることだけが
唯一可能であるような形だと思える。

ただ、伊藤計劃の「ハーモニー」を読んだ時に感じたものは
明らかにそれまでの小説とは異質なものだった。
非常にスリリングでエンターテイメントとして完成されていて
さらに、時代に根差した問題意識も先鋭だったが
そんなものが僕を驚かせたのではない。

ここまで物語が動いているように見せながらも
実際のところ、物語としては何も動いていない。
言いかえる。世界は何も微動だにしない。
「私の世界」ですら、物語の展開によって揺さぶられてもいない。
感情は揺らされている。誤変換で出たが、強請られていると言ってもいいくらい。
それでも、私を含めた世界の位相は何も揺らがない。

僕は小説というものを
物語の持つ駆動力に賭けられていると考えていた。
物語の展開とは世界の位相の変化であり、
同じ空があっても違って見えるようになる、
そんなものの為に物語が生み出されるのだと。

だが、この作品はそこに賭け金を置かなかった。
置けなかったのか、置かなかったのかが分からず、困惑した。

それを知るために、彼のもう一つの作品「虐殺器官」と
さらに、同時代にデビューした円城塔の「Self Difference Engine」を読むことにした。

その結果、何が分かったのかと一口に言うのは難しい。
ただ、もっと読めば分かるのかと言えば、
おそらくそういった作品群を見つけることはできるだろうが
小さな差異に拘泥したり、くだらない統計を付け始めてしまうかもしれない。
そんなところには多分、この異質さの理由は現れてこないだろうと思う。
なぜなら、その一作で十分にそれを感じることができて
そこにこそ、まず「異質さ」があったのだから。

そんなわけで、これを前書きとして
次に項目を進める。

at 22:42, テツ, 月と珈琲

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